
アフリカがヨーロッパ諸国によって植民地化された背景には、いくつもの複雑な要因が絡み合っています。「なぜアフリカだったのか?」という問いには、経済・政治・軍事・イデオロギー、あらゆる角度からの答えが必要です。ここでは、その代表的な理由を整理して見ていきましょう。
まず一番大きな理由はこれ。19世紀のヨーロッパでは産業革命が進み、工場を動かすための原料(ゴム・綿花・銅・金など)が大量に必要になりました。さらに、それを加工して作った製品を売るための市場も求められていたんです。
アフリカはまさにそれにぴったりの場所だったというわけ。広大な土地に豊富な資源、そして地元の人々を安価な労働力として使える。ヨーロッパから見れば、「これは利用しない手はない」という発想だったんですね。
1870年代、第二次産業革命期の鉄工所内部を描いた絵画。
出典:アドルフ・メンツェル(Adolph Menzel)/Public domainより
このアドルフ・メンツェル作『鉄の圧延機(現代のキュクロプス)』という絵画は、労働者たちの過酷な労働環境や、当時の産業の発展を象徴しています。産業革命がもたらした大量生産の需要は、アフリカにおける植民地支配と資源の搾取を促進し、世界的な影響を及ぼしたんですね。
1913年当時のアフリカの植民地支配を示す色分け地図
出典:Photo by Aris Katsaris / CC BY-SA 3.0より
19世紀後半は、ヨーロッパの列強――イギリス、フランス、ドイツ、ベルギーなど――が世界中で勢力争いをしていた時代です。インド、東南アジア、カリブ海、そしてアフリカ。どこを取っても「他国に取られる前に、自分たちの旗を立てよう!」という意識が強まっていきました。
特に1884年のベルリン会議以降、アフリカの土地は“空白地”として、ヨーロッパ諸国によって地図上で分割されていきます。この会議では、現地の民族や国境線はほぼ無視。完全に“ヨーロッパの都合”で線が引かれたというのが実情です。
当時のヨーロッパには、いわゆる「文明の使命」という考え方がありました。これは、自分たちの宗教(キリスト教)・言語・文化・法律こそが「正しい」もので、それをアフリカやアジアの人々に“教えてあげる”ことが、道徳的にも正しい行いだと信じていたんですね。
でも実際には、これは植民地支配を正当化するための口実に過ぎなかったケースがほとんど。現地の文化や価値観を踏みにじりながら、「君たちのためだよ」と押しつけていたわけで、今でいう“文化的傲慢さ”が全開だったとも言えます。
1900-1915年頃、ベルギー領コンゴを走る「ケープ・トゥ・カイロ鉄道」の蒸気機関車
出典:Public domainより
アフリカの植民地化が一気に進んだ背景には、鉄道・蒸気船・通信技術・火器などの技術革新も大きく関わっています。かつては「アフリカの内陸部は病気や地形のせいで危険」とされていたけれど、19世紀後半には医療や交通手段の進化でヨーロッパ人が奥地まで入り込めるようになったんです。
その結果、武器で圧倒し、契約や条約という名の“トリック”で土地を奪い、植民地支配がどんどん広がっていったという流れがあります。
アフリカ側にも、植民地化を防ぐのが難しかった事情があります。大陸全体が一つにまとまっていたわけではなく、無数の王国や部族がばらばらに存在していたため、ヨーロッパ勢力に「分断して支配する」隙を与えてしまったという面もありました。
さらに、一部の地元勢力は敵対する部族を倒すためにヨーロッパ勢力と手を組んだり、武器と引き換えに協力したりすることもあったため、複雑に入り組んだ関係の中で植民地化が進行していったんです。
アフリカが植民地化された理由って、「力で支配された」だけじゃなくて、経済、政治、文化、技術、そして現地の事情まで、いろんな要素が絡み合った結果なんです。背景を知れば知るほど、「なぜ植民地化されたのか」という問いには、一言で答えられない深さがあることがわかります。