
チョコレートの原料としておなじみのカカオ。
実はその7割以上がアフリカで栽培されているって知ってましたか? とくに西アフリカ――コートジボワール、ガーナ、ナイジェリアなどは、まさに“世界のカカオ畑”なんです。
でも、カカオってもともと南米原産。じゃあ、どうやってアフリカにやって来たの?そして、なぜここまで巨大な産業になったの?という疑問が浮かびますよね。
この記事では、そんなアフリカにおけるカカオ栽培の歴史をたどりながら、その背景にある人々の暮らし、経済、そして世界とのつながりを見ていきましょう!
カカオの原産地は、アマゾン川流域を中心とした中南米の熱帯地域。古代マヤやアステカでは神聖な飲み物とされ、カカオ豆は貨幣としても使われていたほど。
それが15〜16世紀、スペインやポルトガルの植民地支配を通じてヨーロッパに持ち込まれ、“甘い飲み物”としてのカカオ文化が始まりました。
そして19世紀以降、ヨーロッパの需要が急拡大するとともに、植民地の熱帯地域にカカオの栽培が広がっていったんです。その移植先のひとつが、アフリカだったというわけですね。
アフリカで最初にカカオが栽培されたのは、今の赤道ギニアやサントメ・プリンシペといった赤道付近の島国。ポルトガル人が19世紀前半に持ち込み、プランテーションで栽培が始まりました。
その後、1880年代頃にガーナ(当時は英領ゴールドコースト)にカカオが入ってきたことで、大きな転機を迎えます。
このとき、カカオをガーナに初めて持ち込んだのがチフォ・ドム(Tetteh Quarshie)という人物。彼はフェルナンド・ポー(現・赤道ギニア)から苗を持ち帰り、自分の農地で育て始めたんです。
ここから西アフリカ一帯へのカカオ拡大がスタートしました。
ガーナやコートジボワールなどでは、カカオが換金作物=キャッシュクロップとして急成長。20世紀初頭からは、イギリスやフランスの植民地政府がカカオ生産を奨励し、輸出用のモノカルチャー経済が形成されていきました。
ただしこの構造、表面上は「農民が自由に栽培している」ように見えても、実際は価格・輸出ルート・市場のすべてを宗主国が管理していたというのが現実。
農民にとっては価格が安定しない・利益が薄いという厳しい状況が長く続いていました。それでも、土地の小規模農民たちはカカオによって学校に行かせたり、家を建てたりと、少しずつ生活の基盤を築いていったのです。
1960年代以降、アフリカ諸国が独立を果たしても、カカオ依存の経済構造はあまり変わりませんでした。
とくにコートジボワールとガーナは、現在でも世界のカカオ生産の半分以上を占めていて、まさに“チョコレートの源”なんです。
でも問題は、ここまで作ってるのに――
という点。つまり、原料はアフリカ、生産はヨーロッパやアジアという“グローバルな分業構造”がずっと続いてきたんですね。
そんな中、近年ではガーナやコートジボワールを中心に、カカオ価格の交渉力を高めようとする動きが出てきています。
たとえば――
また、ルワンダやタンザニアなどの新興カカオ産地では、クラフトチョコレートとして輸出される動きも。
「アフリカから高品質なカカオを、フェアに世界へ」という新しいストーリーが、少しずつ始まっています。
アフリカのカカオ栽培の歴史は、単なる農業の話ではなく、植民地支配・貧困・世界経済との関係など、たくさんのテーマがつながっています。でもその一方で、そこから新しい道を切り拓こうとする動きも確かにある。カカオには、苦味と希望が、どちらも詰まっているんですね。